2023年11月1日水曜日

「屠畜のお仕事」が面白い その2

そんでもってワシってさあ。
常々、「命をいただく」っていう言い方に疑問を持ってたのね。
そういう感謝の気持ちを示せば何か許してもらえそうな雰囲気が苦手なんだ。
いや、だって「感謝すっからぶっ殺して食って良いだろ?」って怖いじゃん。
それならいっそ「免罪符なんかいらねーよ」って思ってたんだ。

だって、他の生き物を殺して食べる時にそんな事を考えるのって人間だけなんだよね。
ライオンだって食われる側の立場になって考えるなんて器用な事する筈がなくて。
家畜側の立場に立って考えるってのは人間の脳がバグってるんだと思うんです。
多分だけど昔はペットの犬も外で飼うのが当たり前だったのが今では室内飼いが主流になって「この子は家族の一員です」って言うのが普通になったのも関係があるんじゃないかなあ。

庭の鶏を見ててもね、虫を見つければ問答無用で食べちゃうのです。
たぶん、人間以外の生き物はそうしてるんだと思うのです。
でね、起きてる間のほとんどの時間を食べることに使ってるんです。
つまり人間以外の生き物は食べたり食べられたりするために存在している、とも言えると思うのです。

それで更に人間が特殊なのは動物としての身体能力はすこぶる貧弱なくせに文明の力ってのが半端なく強力なもんだから、大抵の動物を一方的に狩ることができちゃう訳です。
もうね、何なら二足歩行で弓とか槍とか使いだした辺りから我々の祖先は自然界から逸脱しちゃったんだと思うんです。
だから美味いモノ食いたさに屠畜したり人に害を及ぼす獣を駆除するのは人類に課せられた「業」だと思うんです。
だから何十年後か何百年後かわかんないけど状況が変わるその日までずっとそれを背負ってくしかないんじゃないかなあと。

でもね例えば猟師が「山の神様から自然の恵みを分けていただく」って言ってたら、それを否定するつもりは全くないのです。
そういう謙虚な気持ちは今で言うSDGsな取り組みなんだと思うんです。

でも殺されて、切り身にされて、スーパーに並んだのを買ってきて調理されて食卓に上がって美味しそうな香りでジュージューいってる段階で「命をいただきます」って感覚は少なくとも私には湧いてこないんです。

「美味そうだから、食う!!」
それだけっすよ。

だから私の「いただきます」と「ごちそうさま」はあくまでそれを最後に提供してくれた目の前の人に対して言うことなんだ。

ついでに言うと「余すことなくいただく」っていう”もったいない”的な感覚も田舎に越してきてなくなった。
余ったらコンポストに放り込んで虫を育てて鶏の餌にすりゃあ良いじゃんって考えてるからだ。
だから鳥皮や脂身やスジスジな美味しくない部分は迷わず残すようになったし、虫も食べない骨だって土に入れとけばカルシウムとしていずれは植物に吸い上げられて循環していく
と思うんだ。

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